「釜ヶ崎と福音」読みました。本書はキリスト教の神父である著者が自身の実体験を基に、宗教を通じてもどうしても抜け出せなかった「自身の壁」が釜ヶ崎でのある出会いにより解放されたことの体験を軸に、いわゆる「神」と言われる存在、救い、福音の力はどこにあるのか、ということが述べられていました。
宗教が絡む以上、聖書を基に話が進められている箇所が多く(聖書に書いてある意味は本当はこういう意味です的な)宗教アレルギーがある方は読みにくいかもしれません。が、自分的には聖書はキリスト教の軸であり、それを基に話を進められていくことは、根拠があり、納得感が深まりました。
自分は仏教で異教徒ですが(どうでもええわ)、読みにくいということはなく、むしろ共感できる部分が多かったです。人として行き着く場所、それは「神」とか「仏」とか言い方が単に違うだけで、本質としては同じだと自分は捉えているし、本書を読み終えた今もその認識は変わりません。
本書の中で得に印象に残った、共感した箇所は、「最近いきついたことは、宗教は折伏のような広めるためにあるものではない」ということです。宗教の特質上、より多くの人にその教えを広め、そして幸せになってもらうということは、どの宗教でも同じ指針だと思います。(でないと、宗教自体が生き残れないし、当然ともいえる)過去の自分も高校生とか、そういう時代に友達にも進めるように言われることが多かった。でも、その当時から漠然と「何か違う」と感じていたし、自分の感覚に違和感があるからこそ、それを相手に話したこともありますが、ギクシャクした空気になることは言うまでもないですね(汗)。
話は戻して、著者も釜ヶ崎で活動をしていくなかで、「本田さんだったら、入信してもいい」という風に言われても、やめといた方がいい、と返します。そのあたりも強く共感です。
自分が何を信じるかは人それぞれだし、当然、友達から話を進められて入信するのも、その宗教との出会いとも考えられる。それが良い、悪いではなく、本質は「自分が本当にその選択で納得できているかどうか」だと思います。違和感だらけのまま、流されるままの選択は良くないし、また、流されたとしても納得しないものであるならば、デフォルトに戻ってもいいわけです。
本書で語られる社会格差、現実に貧しくて、行き場のない人々を社会構造の問題として、よく考えるべき事柄だと思います。
自分は大阪出身なので、大阪城公園のテント生活をしている人を少年時代によく見ていたけど、また違った視座を得ることができました。
本書を読んで実際に行動に出せるかどうかはまた大きな山がある話で別だけど、誰人が読んで、知り、考えることぐらいはできるのでは、と思います。
以下、ハイライトです。
36: ある出会い
「力は弱っているときこそ発揮される」弱さの中にあってこそ力は十分に発揮される。とは、ふつうの社会の価値観からいえば正反対です。力のないものがなぜ人を助けることができるのか、ふつうはそう考えます。しかし、福音の価値観は逆だったのです。だれもが助けてあげなければ、介護してあげなければ、と思うその人こそ、人を生かすことができる。ボランティアをする側の人たちよりも間違いなく神の力を伝えるパワーを持っている。だから、このことを真剣にうけとめて尊厳の心をこめて関わらせてもらったときに、そのように関わらせてもらうことによって、こちらにもその力を分けてもらえる。
神の力、人を生かす力とは、こちらが元気だから、元気を分けてあげられるというようなものではない。人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒り、それがわかる人だからこそ、人を励ますことができる。「よし、もう少し頑張ってみよう」という力を、その人の内に引き起こさせる。聖書に書いてあるのはそういうことだったのです。
37: ある出会い
力は弱さの中にあってこそ十分に発揮されると書いてある。つまり貧しく小さくされた人たちのいつわらざる願いを真剣に受け止めその願いの実現に協力を惜しまないときに、人は共に救いを得、解放していただける。それが神さまの力だということです。
39: ある出会い
イエスは間違いなく、わたしたちのために派遣してくれているのは、その十二人の弟子たちに代表されるような、貧しく小さくされた者たちであるということです。イエスを筆頭に、罪人の仲間と見下げられる者、イエスが派遣した者であり、その人たちは、そのつもりで関わってください、貧しく小さくされている人たちの真の願いをまじめに受けとめ、ゆとりとゆたかさを共存できるようになるために協力してください、と。そうすれば、別にあなたが貧しくなる必要はない。貧しくなる競争などしなくていい。ただ、自分ではなくて、この人の持つ感性のほうが本物だという、そういう関わりをしてください。それができたなら、イエスから派遣されたその弟子が受けるのと同じ報いをあなたも受けられると、こういわれるのです。
57: 相手の立場に立てると思うな
釜ヶ崎に赴任したばかりのころ、できるだけ日雇い労働者の一人のようになりたかった。それで、できるかぎり日雇いに出て、ドヤにも泊まるようにし、みんなといっしょに銭湯に行って、モンモン(刺青)の入った労働者たちと風呂に入り、大衆食堂で飯を食うようにつとめたのです。おかげで、一年もすると、たしかに見てくれは一労働者のようになりました。歩きながら、通りのガラスに映る自分を見て、よしよしと満足していたわけです。一同じ立場に立てたぞ、と。だけど外見が似てくれば似てくるほど、彼らの立場の深刻さに気づかされるのです。否応なしに寄せ場にくるしかなかった先輩たち、仲間たち一人ひとりの本当のさびしさ、本当の悔しさ、どれほど家に帰りたいか。電話番号から古い住所の番地までも暗記しているにもかかわらず、家に手紙を書けないつらさなど。。思いもおよばないものなのです。ほんとうに同じ立場には立てないことが身にしみてわかりました。いくら想像力を働かせても、同じ立場には立てないことを痛感しました。
58: 相手の立場に立てると思うな
相手の立場には金輪際立てないというところから発想しなおすのです。ではどうすればいいか。相手を正しく理解しようと思ったら、どうすべきなのか。理解するといういいまわしが示唆しているかもしれません。
つまり、相手よりも下に立つことです。同じところに立てないのですから、教えてくださいっていう学ぶ姿勢を持つことです。このことは釜ヶ崎でほんとうにいやというほど思い知らされたことなのです。相手よりも下に立つこと。
68: 塵から低みから
「キリスト、イエスは神としての在り方がありながら、神と同じ在り方にこだわろうとせず、自分を明け渡して奉仕人(僕、奴隷)の生き方を取られた。イエスは見たところ他の人たちと同じであった。すなわち姿は一人の人にすぎないイエスが、自分の低みに置き、神の従属者(神に自分を合わせる者)として立たれた。それも死を引き受けるまでに」
つまり、イエスは人の目には見えない神を見える形で現しましたが、それはなんととことん低みから、はたらいておられる神だったのです、ということでしょう。
89: 福音との出会い
ほんとうにだれかの支えが欲しいとき、助けてもらいたいとき、ただ明るい人・喜びいっぱいの人というのは何の役にもたちません。痛みを知っている人こそが、力を与えてくれるのです。
95: 一致の秘訣
体で「いちばん貧弱」と見なされている部分が、だいじなのです。わたしたちは、体の部分で「たいしたことない」と思ってしまうところを、なにより尊重するようにします。それで、わたしたちが、「目ざわりだ」としていた部分が、よりすぐれた調和をもたらすようになるわけです。調和がとれている部分には、そうする必要はありません。
神は「不足がちなところ」をなによりも尊重されるべきものとして、体を組み立てられました。それで体の分裂がなくなり、各部分が互いに配慮しあうようになるのです。こうして、一つの部分を苦しむなら、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分がほまれを受けるなら、すべての部分がともに喜ぶようになるのです。
100: 洗礼
イエスにとって洗礼とは、自分に死んで立ち上がることでした。すなわち過越こそ本当の意味での洗礼だということです。ということは、どんな人でも人生を生きていく中で、自分を死なせなければならない場面に出くわして、そして、そこから立ち上がっていくわけです。それこそが、洗礼なのであって、水による洗礼を受けたかどうかで、区別する意味などほとんどないことになるでしょう。
115: 寄留者アブラハム
貧しく小さくされた者を選んだ、神のその選び。それにわたしたちはどう対応したらいいのか。わたしたちがその人を、神が共にはたらく人として認めて、尊重した関わりをもつとき、わたしたちも、その貧しく小さくされた人の仲間として、アブラハムの側に立つ者として神は認めてくださる。
わたしたちが「こいつ、なんや、うっとうしいだけやないか」という感じで呪うというか、突き放してしまうとき、神もお前を突き放すよ、これが、貧しく小さくされた者を、神がいつもすべての人の救いと解放のために選ばれることのしくみなのです。
125: イエスとはだれか
「正義の樫の木」これはクリスチャンのことをいっているのではない。洗礼を受けていても、受けていなくても、ほかの宗教に属している人であっても「わたしは無宗教です」といっている人であったとしても、貧しく小さくされているがために、だれよりも痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りを知っている人、同じようなつらさを担っている仲間に対して「わかるよ」といってあげられる、そういう人たち。その人たちこそが神が植えられた正義の樫の木なのです。
127: 樫の木
イザヤは貧しい人たちに派遣されて「神さまがはたらくのはあなたたちと共にだ!勇気をもって、自信をもっていいんだ!」と告げる。それが福音なのですよ。
「えっ、こんなわたしが頑張ちゃっていいの?」としいたげられた人たちにいわせる知らせ、それが福音です。そして、その彼らが軸になって、力のある人、若さをまだ持っている人、友達をいっぱい持っている人、そういう人たちが、その貧しい人たちの手伝い、助手になって、みんなで作り上げていく、社会の刷新、廃墟の立て直しはこうしてなされるのだ。
159: 底辺の底辺に立つ者
「神の子は人間の姿で自分を現した。その人間とは奴隷状態の人間であった。そして、すべてにおいて神に従う者として十字架の死までも受け入れた方なのだ」ということです。つまり、だからすべてを支え上げる方、それが天の神であって、低みからはたらいておられる天の父を、見える形にすなわちことば化して示してくださったのがイエスの生きざまなのだ。そう読むべきなのです。
165: 福音のはたらき
宗教はたまたま出会って、受け入れたということが多いでしょう。それでいいのではないですか。ただし、どんな立派な宗教に属していても、それだけでは救いの保証にはなりません。それは、ユダヤ教であってもキリスト教であっても、他の何教であっても同じです。大事なのは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りをしっかり受け止め、いましんどい思いををしている人がいちばん願っていることをいっしょに実現させることです。お金のある人は、そのお金をそのために活用する。必要な技術を持った人を知っていれば、その人に声をかけてあげるのも協力の一つ。看護師の資格を持っていれば、看護師としての援助の仕方もあるでしょう。さまざまな協力の仕方、連帯の仕方があるのです。
167: 福音のはたらき
福音は告げ知らされるべきであるけれども、宗教は宣教すべきものではないというのが、わたしが最近たどりついた結論です。略
キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、仏教であれ、どんな宗教であれ、そこに属しているから救いを保証されるわけではないのです。このことはパウロの手紙からも読み取れるとおりです。大事なのは福音を生きるということです。ですから、全世界に行って「福音を告げ知らせなさい」とイエスはいうのです。「キリスト教を広めなさい」ではないのです。
174: 不正な管理人のたとえ
旧約聖書に「土地は神のもの」とあります。略
現代では、わたしたちの生活と文化をささえているもの、それは技術であり、情報や知識であり、学問であり、資源であり、また、それらを活用する能力や才能や健康や社会的地位です。それも含まれてきます。
その何もかも「あなた一人のものじゃないんだよ。みんなのもの、みんなが使えるために、神があなたに預けているんだよ」ということです。「いや、夜も寝ないで、わたしが頑張って稼いだ。わたしの財産だ」「この資格をとるために、わたしがどれほど徹夜で勉強したか」といいたいかもしれない。けれども、徹夜で勉強をつづけられた能力は健康は与えられたものでしょう。けっして自分一人でできるわけじゃない。努力して頑張るチャンスも与えられない人たちが少なくないのです。自分の頑張りで得たものであっても、それはみんなのためのものと考えたい。どんなものも、すべて神から預かっているものなのです。
184:「良識的判断」の三つの誤り
わたしたちは善と悪、正義と正義に反することを和解させようとすべきではないのです。わたしたちに求められているのは、悪と、正義に反することをしりぞけることです。「すべての対立は誤解に基づいていて、かならず双方に問題点があるものだ」というわたしたちの誤った思い込みを捨てなければなりません。
こういう思い込みは、不正と抑圧の下で苦しんだことのない人、人のいのちと尊厳を踏みにじる出来事に目を向けようとしない人だけがなしうる発想です。どのような対立/抗争でも、わたしたちは中立の立場を取ることができると思い込むことです。中立が不可能な対立関係というものが現実にはあるのです。差別や抑圧が原因で起きている対立です。それはしばしば、圧倒的な多数者による無自覚、無反省ないじめという姿をとります。また、少数ではあっても圧倒的な力と影響力をもつ人たちによる決めつけという場合もあります。これには歯止めはありません。
197: 対立を社会構造的な視野でとらえる
いくら個人的、私的な生活態度がつつましく、敬敏で善意に満ちた人であっても、その人が社会の裕福な側、力を持つ側にいるということは、貧しい人たち、力を持たない人たちを抑圧する側にいるということです。ですから、抑圧する側にいる人は、意識的に立場を超えて抑圧される側と連帯しないかぎり、そのつもりはなくても、貧しく小さくされている人たちを抑圧しつづけているのであり、したがって、その人は真の平和への道をあゆむことはできないのです。「金持ちは神の国に入れない」
219: 貧しく小さくされた人たち(貧困者)がいるのは「なぜか」を考える
いったいなぜ、これほどまでに貧しく小さくされた人たちが、こんなにもおおぜいいるのか、わたしたちは考えるようになるでしょう。これが大事です。
「怠け者だから」、「無知だから」とか、「要領が悪かったから」、「運がわるかったのだ」というのが、偏見と誤解にすぎないということは、救援活動に取り組んでいるうちにわかってきます。
もちろん、貧しく小さくされた人たちの中にも怠け者はいます。無知な人も要領のわるい人もいます。でも、ゆたかさを享受する側にも同じような人が同じ程度いるのと、同じです。世間一般の偏見にとらわれずに問題を直視し、正面からきっちり関わっていくときに、要は個人の資質がどうかではなく、社会の仕組みの問題であったことに気づくのです。
233: 貧しく小さくされた人たちの持つ知恵と力に気づく
「貧しく小さくされている社会的弱者には、自分を解放する潜在的な力がある」ことに気づくことです。彼らは「社会的弱者」と呼ばれてはいても、社会的に弱い立場に立たされているという意味であって、彼ら自身が無力だというのではありません。持っている力を発揮するための「場」や「条件」を奪われているだけなのです。彼らは、「小さい者」なのではなくて、「小さくされている者」なのです。