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本の「使い方」1万冊を血肉にした方法: 出口 治明

※本サイトはPR表記を含みます。


以前より、読書に関する本に興味が強くなっています。なぜなら、本を読むにあたって「読書」にも、初心者から上級者までスキルがあると感じたからです。本を読む行為は一見誰でも同じ行為に見えますが、本に対する向き合い方、読み方、見つけ方、様々な角度でセンス(技術)を磨く必要があると感じています。

そこで、読書とはなんぞや、ということで色々と読書に関する指南書を読み漁っているのですが、「本の「使い方」1万冊を血肉にした方法」も読書をする人としない人の違いであったり、やはり古典は大切だということを再認識させられる内容です。とて、古典はまだ面白いと感じれないので挫折する・・

教育は生きていくために最低限の武器であり、教養はより自由に生きていくための最善の武器になる。そんな気づきを与えてくれる本です。

そして、教養を得るために必要なのは「本」「人」「旅」から得ることができることを指南されています。自分はすぐにホームシックにかかってしまうwので、旅とは無縁に近いものですが、旅には人との出会いがあると思うし、実際に違う国などでは、五感をフルに生かして経験として感じることができる。そして、思い出となり、教養としての血肉になっていくのだろうなあと思います。

とかく、本書にも書かれていますが、本は向き合い方によって、直の経験に近い体験ができるものとして、一番コスパの良い投資だ、とも言われています。

特に古典はオススメらしいです。そして、古典を理解できない人はアホらしいです。(アホです)

まあ、面白いと感じるからこそ、勉強は進むのであって、自分はそれでも古典を面白いと思える日まで、興味の向くがままに本を読んでいきたいと思います。

以下、自分がハイライトし、繰り返し読みたいと感じた箇所です。

再刊にあたって

戦後の日本社会を引っ張ってきたのは、製造業の工場モデルです。
工場モデルの下では、製品をできるだけ多く生産することが求められます。そのためには、工場の機械設備をできるだけ長く稼働させる必要があります。つまり、長時間労働が合理的になるのです。

先人の考える型や発送のパターンを知るひとつの方法が、読書です。とくに古典。何十年、何百年と読み継がれてきた古典は、現代人にとっても色あせることはありません。読書は、世界の賢人や先人が書き残した体験や思考を、文章で追体験することです。

読書の本当の目的が考える力を鍛えることだとしたら、アリストテレス、デカルト、カントといった超一流の頭脳のプロセスを追体験することが、学びになるはずです。

僕の考える人間観は次の通りです。
・「人間は、本質的にはチョボチョボでそれほど賢くない」という考え方
・「しかし人間は、勉強したらそれなりに立派な人になる」という考え方
です。

教育+教養=より良い生活

教育だけでは、それなりの人生しか送ることができません。より良い人生、より良い仕事、より良い生活を送るためには、教養が必要です。教養に触れ、インプットが多くなればなるほど、アウトプットの幅が広がり、発想が豊かになります。

人間の人間たる所以は、自分の頭で考えることです。「自分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を述べること」が何よりも重要です。これこそが、すべての教育や学習の最終目標です。

・教育 - 生きていくために必要な最低限の武器をを与えること
・教養 – より良い生活を送るために、思考の材料となる情報を広く、かつある程度まで深く身に付けること

教養を身に付けるための「三智」

「人の世に三智がある 学んで得る智 人と交わって得る智 自らの体験によって得る智がそれである」

・「人」から学ぶ
・「本」から学ぶ
・「旅」から学ぶ
の三つ以外に、教養を身に付ける術はないと考えています。

世界を正しく理解するためにまず「タテヨコ思考」で物事を捉えるようにしています。
・タテ思考 / 時間軸
・・・人類の、あるいは会社の歴史と照らし合わせて考えること(昔の人の話を聞いたり、古典や社史などを読むこと)
・ヨコ思考 / 空間軸
・・・世界の人々、あるいは他社などの状況を照らし合わせて考えること(他の国や他社などの実情を調べたり、実際に行ってみること。即ち旅をすること)

何百年も読み継がれたもの(古典)は当たりはずれが少ない

本、とくに古典は、当たりはずれが少ないと思います。なぜなら古典は、
「歴史・哲学・思想・科学・文学など、人間が創造し、探求してきた知の成果や果実が、世界中の人々に読み継がれて今日まで残ってきた書物」だからです。

実体験にも勝るイメージが得られる

毒が回らない本は、「ああ、おおしろかった。すっきりした。はい、全部、忘れて、それでおしまい」です。そのような本は、僕にとって、読むだけ時間のムダです。

「青田買い」が大学生をスポイルしている

大学1年目は、受験勉強を終えた開放感から、遊びます。2年目に就職活動の準備を始め、3年目に入ると本格的に就活を取り組みます。4年目には就職先が決まり、残りの学生生活を遊んで過ごすわけです。日本の大学生は、いったい、いつ勉強するのでしょうか?

本は、全体的な知識をコンパクトにまとめたツール

本は、著者が表現したことを、コンパクトにまとめて提示するツールです。共著を除けば、基本的に、著者ひとりの世界観しか提示されません。書き手が深い見識を持つ一流の著者であれば、良質の教養を得ることができます。

新聞、インターネット、本を、特性ごとに使い分ける

新聞 – 価値の序列を付けて、文脈を伝えるツール
インターネット – 速報性と検索性に優れたツール
本 - 時間軸、空間軸が広く、全体的な知識を伝えるツール

以前にアベノミクスをトータルに理解したと考え、何冊かの本をまとめて読み込みましたが、
「連続講義・デフレと経済政策―アベノミクスの経済分析」
「デフレーションー日本の慢性病の全貌を解明する」
「日本銀行」
の3冊が僕には一番腹に落ちました。現在でもこの3冊は輝きを失ってはいないと思います。なお、日銀の政策については、「中央銀行」というすばらしい傑作があります。インターネットや新聞では、断片的な情報しか拾えないので、その世界を丸ごと勉強することができません。本のほうが圧倒的に有益です。

教養なき社会は、政治と経済を不安定にする

本を読む人が少なくなると、既得権益や為政者が支配しやすい社会ができ上がると思います。ジョージ・オーウェルのディストピア小説「1984年」に描かれている政府のスローガンは「無知は力」でしたね。
本を読まないと、教養が身に付きません。教養が身に付かないと、自分の頭で考えることができなくなります。
支配する側や、商品・サービスを一方的に供給する側にとっては、自分の頭で考える習慣のないリテラシーの低い人ほど扱いやすい。

LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)のニコラス・バー教授は、IMFが主催した講演の中で、「年金とか社会保障は、負担がすなわち給付なので、みんなで選挙に行って税金の分配が上手な良い政府をつくること、もしくは、経済成長することによって負担が自然増して給付が充実すること、これ以外に大事なことは何もない」と言っています。僕も、まったく同感です。
ですが、市民ひとりひとりが、ある程度の賢さを持っていなければ、良い政府もつくれないし、構造改革をして経済成長を実現させることも難しいと思います。

新しい知識を得るときは、「厚い本」を最初に読む

7~8冊借りてきたら、次は読み始めるわけですが、本を読む順番が大切です。
新しい知識を学ぶときには、僕は必ず「分厚い本」から読むようにしています。厚い本が最初で、薄い本が最後です。
あくまで一般論ですが、「分厚い本に、それほど不出来な本はない」と僕は考えています。なぜなら、不出来な人に分厚い本が書けるとはまず思えないからです。
分厚い本をつくるのにはお金もかかるので、出版社も、不出来な人にはまず書かせないと思います。分厚い本が書けるのは、力量のある人です。力量のある人が書いた本なら、ハズレの確率は低いと思います。

マイルールを決めたら、あとは淡々と従う

新しい分野の勉強を始めるときは、
① 関連書籍を「7~8冊」手に入れる
② 「厚くて、難解そうな本」から読み始めて、輪郭をつかむ
③ 最後に「薄い入門書」を読んで、体系化する
④ 本で学んだあとは、実際に体験してみる

というマイルールを決めています。そして、一旦マイルールを決めたら、あとは迷いません。ルールのとおり行動するだけです。

古典を読んでわからないのは、自分がアホだから

同じ日本語で書かれていて、同じ漢字を使っているのに、どうして古典は難しく感じるのでしょうか?
理由は、「時代背景が違うから」です。同じ言葉であっても、時代が違えば、その意味するところが異なるのです。

古典が「優れている」理由

ビジネス書を10冊読むより、古典を1冊読むほうが、はるかに得るものが大きい。優れた本というものは、そう滅多に世に出るものではありません。
では、古典は、どうして現代のビジネス書よりも優れているのでしょうか。その理由は、大きく4つあると思います。
① 時代を超えて残ったものは、無条件に正しい(より正確には「正しいと仮置きする」)
② 人間の基本的、普遍的な喜怒哀楽が学べる
③ ケーススタディとして勉強になる
④ 自分の頭で考える力を鍛錬できる

人間の基本的、普遍的な喜怒哀楽が学べる

人間の塁型も、人間の喜怒哀楽も、すでにさまざまな古典の中で最高の天才たちによって明らかにされています。だからこそ、古典は役に立つのです。古典には、人間の本質的、普遍的、根源的、基本的な喜怒哀楽が描かれているのです。

ケーススタディとして勉強になる

ウィンストン・チャーチルは、次のように名言しています。
「選挙とは、必ずしも信用のおけない候補者たちの中から、相対的に良さそうな人を選ぶ「忍耐」のことである」

古典は、最良のケーススタディです。古典を読めば、人間と人間社会に対する認識を比較的簡単に得ることができます。1からすべて自分で考えなくても、「巨人の肩の上に立って」、先人が積み重ねた教養をありがたく利用させてもらえればいいのです、
僕は、「ほとんどの人間は偶然に左右されて、川の流れに流されていく。それが人間の人生の自然な姿である」と考えています。

自分の頭で考える力を鍛錬できる

木田元さん(哲学者)が言われているように「きちんと書かれたテキスト(古典)を一言一句丁寧に読み込んで、著者の思考のプロセスを追体験することによってしか人間の思考力は養えない」のです。

現代の本の選び方

①興味のあるジャンルの本を選ぶ
②「目に飛び込んで来た本」を手に取る
③立ち読みして、「最初の10ページ」で決める
⑤ 新聞3紙の「書評欄」を見て、ムラムラとした本を選ぶ
⑥ 基本的に作者は気にしない
⑦ 「SNS」を使って、人に聞く方法もある
⑧ 「ベストセラー本」は読まない

ネクタイを締め、正座するぐらいの気持ちで本を読む

読書は、僕にとってはとても大切な時間ですから、本を読むときは、マキアヴェッリのごとく「よし!いまから本を読むぞ」と気合いを入れて読んでいます。読書は著者との1対1の対話です。しかも立派な人と対話するのです。
誠実に、礼節を持って著者と正面から向き合いたい。極端なことを言えば、「きちんとネクタイを締め、正座をして本を読む」ぐらいの気持ちです。

たくさん読んでも、何も残らなければ意味がない

いうならば、速読は、観光バスに乗って世界遺産の前で15分停車し、記念写真を撮って「はい、次に行きましょう」と言って次の世界遺産に向かう旅のようなものです。
記念写真を見れば、「どこどこどこに行った」という記憶は残るかもしれませんが、「何を見たか」を明確に覚えている人はほとんどいないでしょう。
それなら、一か所に留まってじっくりと見学したほうが、はるかに記憶に残ります。
どれほどたくさん本を読んでも、残存率が低ければ、意味がありません。

ビジネス書は抽象化されすぎている

大成功者の本を読み、彼と同じように行動したからといって、ビジネスがうまくいくとは限りません。全てのビジネスは、人間と人間がつくる社会を相手にしているのですから、「人間とはどういう動物なのか」を理解することで優先したほうがいいと思うのです。

自分と著書の考えが違うとき

著書に「歴史の進歩とはなにか」がある哲学者の市井三郎は、次にようなことを言っています。「人間は全員違うのだから、価値観を押し付けられたり、嫌なことを強制されたくない。自分の良心に照らして、好きなように生きることができる社会を「進歩」と呼ぶ」。僕も、人間がいちばん嫌がることは、「価値観の押し付け」だと思います。

大人になることは、可能性を捨てること

人間ができることは、実はほんの少ししかありません。自分が置かれた場所で、自分にできることを精一杯やっていく、それが難しければ場所を変えることぐらいのものです。

世の中の「ファクト」について考えるための本

人はなぜ、陰謀論を信じるのでしょうか。それは、単純明快でわかりやすく、「歴史の真実を知っているという優越感」を抱けるからです。

「新社会人」の心構えについて考えるための本

韓非は、性悪説(人間の本性は悪であり、努力や修練によって善の状態に達する)を唱えていました。人間の本質は、愚かで狡賢い。人間の本性は悪である。だからこそ、厳格な法治主義の確率が政治の基礎である、と説いています。

子どもに読ませたい本

親が子どもに教えるべきことの第一は、「人間は顔形もみんな違うのだから、考え方も違って当然だ」というファクトに尽きると思います。

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