BOOK LIFE

限りある時間の使い方: オリバー・バークマン

※本サイトはPR表記を含みます。

限りある時間の使い方」読みました。人の人生は大体4000週間しかない。思ったよりも早く死を迎える。そんな冒頭から本書は始まります。何かに忙殺されていたり、将来にばかり気を取られて、今を楽しむことを忘れているようなら、本当にそれでいいのだろうか? を、もう一度よく考えてみてほしい。というメッセージが強く込められた本でした。

いわゆるライフハック的な本ですが、良い意味での毒素は少ないように感じました。なので、本屋にいくとトップ入りとして本がずらっと並んでいるのをよく目にしますが、記憶には残りにくかったです。

ただ、「今を楽しむ」というのは単に自分が好き放題に時間を過ごすだけで、人生のライフステージを考えずにとりあえず楽しもうぜーという趣旨ではなく、長期的な計画も必要だし、何かを成し遂げるための努力などを決して否定するものではない。というのは読者に誤解を与えないよう、要所要所にでてきます。

感覚的に小林正観さんの「淡々と生きる」という本に通じるものがあるかな。と個人的に思います。小林正観さんがいう、人生は生まれる前に自分がすでにシナリオを描いていて、人はその通りに生きるとか、一種のスピリチュアル的要素はこの本では少ないですが、伝わってくる要素としては同じ類かなと思います。「今」にできるだけ集中し、そして、その瞬間をどう味わっていくのか。ということに重きをおくことの方が、結果として自分の望む、幸福な人生を歩めるのではないか。という問いを自分に日々問うていくことが大切なのかと。

人生をよりよく生きていくためには、本当に自分にとって何が大切で、また、何を選択すべきなのかを、今、何かを思い詰めて悩んでいる人は心が楽になると思うし、自身の時間の過ごし方をより良くしていきたい(改善したい)と考えている人が読むと、結構ささると思います。そんな方にオススメしたい一冊でした。

 

以下、ハイライトです。

冷たいシャワーで目を覚ませ

自分がやりたいことも、他人に頼まれたことも、すべてをやっている時間はない。絶対にない。
だから、それを認めて生きる。そうすれば、少なくとも無駄に自分を責めなくてすむ。
タフな選択はいつだってやってくる。大事なのは、意識的に選択することだ。何に集中し、何をやらないか。どうせ全部はできないのだから、少なくとも自分で決めたほうがいい。

効率化ツールが逆効果になる理由

子どもたちを食わせるために最低賃金の仕事を2つ掛け持ちしている人は、当然忙しすぎてクタクタに疲れてきっている。一方で、お金のある人も、それはそれでまったく余裕がない。多額の住宅ローンを抱えて毎月返済しなければならないし、仕事は(給料はいいとしても)忙しすぎて家族とゆっくり過ごせない。気候変動に関する社会運動にも参加したいけれど、そんな時間はどこにもない。
イエール大学のダニエル・マルコヴィッツが言うように、成果主義の世の中では、たとえ勝ち組であっても(つまり、エリート大学を卒業して超高給で働いている人も)、終わることのない強烈なプレッシャーにさらされつづける。誰もがうらやむ地位を手に入れても、そのポジションを維持するために、さらに死ぬほど努力しなくてはならない。
もう無理だと感じるのも当然だ。
なぜなら、厳密に論理的にいって、無理なのだから。

やりたいこと、やるべきこと、他人にやれと言われたこと、それを全部やるだけの時間が本当にないのだとしたら、もう諦めるしかない。どんなに悔しくても、どんなに人に嫌われても、時間がないのだから仕方ない。やることリストが終わらないからといって、自分を責める必要はまったくない。やれることはやる。できないことはやらない。それだけだ。「もっとやれ、全部やれ」という内なる暴君の声は、ただの勘違いだから無視していい。

シーシュポスの受信箱

どんなに効率的にやっても、忙しさは終わらない。その事実を理解していれば、いつか平穏な日々がやってくるのではないかという非現実的な期待を持たなくてすむ。理想的な未来を待ちわびるかわりに、今の生活に平穏を見いだすことができる。たとえやることが大量にあってもだ。
何もかも諦めたくないという願いを捨てて、タフな選択に向き合ったとき、よりよい選択をすることが可能になる。

死へと向かっていく存在

この人生はリハーサルではない。あらゆる選択に無数の犠牲がついてくる。時間はつねにすでに差し迫っていて、今日や明日にも完全に尽きるかもしれない。よくいわれるように「今日が人生最後の日のつもりで」過ごすだけでは足りない。「つもり」ではなく、実際に今この瞬間が人生最後であるかもしれないのだ。未来が一瞬でも残されていると確信することはできない。
普通に考えれば、こういう態度は病的でストレスフルだと思う。でも、人生をそのように見ることができたなら、あなたは普通でない考え方を手に入れたことになる。

人生のすべては借り物の時間

正直にいっておくと、僕だって自分の死を完璧に受け入れて心安らかに日々を送っているわけではない。そんな人はいないと思う。ただ、たしかにいえるのは、死を受け入れて生きる態度をいくらかでも取り入れることができたなら、現実は一変するということだ。

スーパーもレジ待ちで並んでいるときも、カスタマーサービスに電話して延々と待たされているときも同じだった。自分が何をしているかは、もはやそれほど意味がない。大事なのは、自分がそれをしているという事実だ。

完璧主義者は身動きできない

空想のなかでは、どんな選択肢も捨てる必要はない。仕事で大成功しながら、家事や育児も完璧にこなし、日々マラソンのトレーニングに打ち込み、長時間の瞑想をし、地域のボランティア活動に参加する。想像だけなら、それは可能だ。でも実際にそのうちの何かをやろうとすると、すぐにトレードオフに直面する。何かで成功するためには、別のことに費やす時間を減らさなくてはならないからだ。

世の中のさまざまな慣習も、実はこの洞察にもとづいてつくられていることが多い。結婚だってそうだ。「幸せなときも困難なときも」一緒にいることを誓うのは、うまくいかなくても逃げださないと約束することで、より満足度の高い関係性を手に入れるためだ。その他の無数の可能性(どこかにいる理想の人)をあえて捨てたほうが目の前の相手にコミットできて、結果的に幸せな生活を送ることができるのだ。
思いきってひとつを選び、無限に広がっていた可能性を封印する。これは前章で述べて「捨てる喜び」にも通じるやり方だ。多数の選択肢を捨てるからこそ、選びとったものに価値が生まれる。
仕事を辞めるにしても、子どもを持つにしても、家を買うにしても同じだ。迷っているうちは不安でいっぱいかもしれないが、思いきって決めてしまえば、不安は消えてなくなる。

ユーザーの意識を乗っとる機械

企業はふつう、自社の商品にいくらかの敬意を払うものだ。でも現在の状況を見ると、一部の企業はユーザーを商品以下のどうでもいいものとして使い捨てている。フェイスブックに早くから投資していたロジャー・マクナミーに言わせれば、僕たちはただの燃料であり、シリコンバレーの炎に投げ込まれた丸太だ。僕たちの注意は個性を剥ぎ取られてデータの貯蔵庫に投げ込まれ、そこで企業に使いつくされる。

人の心のなかには、SNSに限らず、気をまぎらせてくれる何かを求める傾向があるようだ。
敵は内部にいる。限りある人生をよりよく生きるためには、僕たち自身の内にひそむ厄介な敵のことを理解しなくてはならない。

デジタルデトックスが失敗する理由

気晴らしへの欲求をすっかり消滅させる方法があればいいのに、と思う。不快に感じることなく重要なことに集中できる秘技を、今すぐ披露できたらどんなにいいだろう。でも正直なところ、そんな方法がこの世に存在するとは思えない。
僕たちにできる最善のことは、不快感をそのまま受け入れることだ。
重要なことをやり遂げるためには、思い通りにならない現実に向き合うしかない。その事実を受け入れ、覚悟を決めるのだ。

1日の困難は1日分でいい

「実は、私は何が起ころうと気にしないのです」
クリシュナムルティが言っているのは、悲しみや哀れみや怒りを感じてはいけないということではない。この先悪いことが起こらないように努力することが無意味だと言っているのでもない。
「何が起ころうと気にしない」生き方とは、未来が自分の思い通りになることを求めず、したがって物事が期待通りに進むかどうかに一喜一憂しない生き方だ。それは未来を良くしようという努力を否定するものではないし、苦しみや不正をあきらめて受け入れろという意味でもない。そうではなく、未来をコントロールしたいという執着を手放そうということだ。そうすれば不安から解放され、本当に存在する唯一の瞬間を生きられる。つまり、今を生きることが可能になる。

あらゆる瞬間は最後の瞬間だ

資本主義とは、あらゆるものを道具化する巨大な機械であるといっていい。地球の資源、時間、あなたの能力。すべては将来的な利益を生むための手段だ。そう考えれば、資本主義社会の大金持ちがなぜ不幸であるのかも理解できる。
彼らは自分の時間を、利益を生むための道具として使うことに長けている。それが資本主義社会での成功の定義だ。ところが時間を有効活用することに躍起になるあまり、彼らは現在の生活を、将来の幸福に向かうための移動手段としか考えられない。
現在を楽しむことができないのだ。

楽しみにしていたことが楽しくない理由

今この瞬間にいようとする努力は、時間を未来のために道具にする態度とは真逆に見える。でも実をいうと、両者はほとんど変わらない。
結局どちらも「時間を最大限に活用しよう」という考え方のバリエーションにすぎない。「今この時を最大限に味わおう」という思いも、行きすぎると経験そのものを覆い隠してしまうのだ。

何のためでもないことをする

しかしここで、セティヤの言う「非目標性の活動」という概念が、ショーペンハウアーが見落としていた可能性を示唆してくれる。そこには苦痛でも退屈でもない道がありうるのだ。
何らかの達成を目標とするのではなく、ただ活動そのものを楽しむこと。僕たちはそんな活動をもっと日々の生活に取り入れたほうがいい。

平凡な趣味の反逆

「最高の一瞬を捉えようとする過程で、経験できることがあります。忍耐や謙虚さはもちろんですが、同時に、自由を感じるんです。無益なことを追求する自由。何にも気にせず、下手くそなことを楽しむ自由。心が洗われますよ」
結果がすべてではないし、結果なんて気にしないほうがいい。
結果はいつも後からついてくるもので、後からではいつだって遅すぎるのだ。

忙しさ依存の悪循環

自分の無力さを認めて、不可能を可能にしようとする無駄な試みを放棄したとき、人は実際に可能なことに取り組むことができる。まず現実を直視し、それからゆっくりと、より生産的で充実した生き方に向けて歩み出すのだ。

小さな行動を着実に繰り返す

もっとも生産的で成功している人たちは、1日のうち執筆に割く時間が「少ない」という意外な事実が明らかになった。
ほんの少しの量を、毎日続けていたのだ。
彼らは成果を焦らない。たとえ1日の成果が少なくても、毎日コツコツ取り組んでいけば、長期的には大きな成果が出せると知っているからだ。1日の執筆時間は短ければ10分程度、長くても4時間を超えることはなく、週末はかならず休んでいた。

時間をシェアすると豊かになれる

時間がないよりは、時間があったほうがいい。それはそうかもしれない。でも時間がいくらあったところで、ひとりぼっちではあまり意味がない。
時間を意味のあることに使うためには、友達と遊んだり、デートをしたり、子どもを育てたり、ビジネスを立ち上げたり、政治運動に参加したり、技術の進歩をもたらしたりするためには、他人と協力することが不可欠だ。たとえ時間がありあまっていても、共に過ごす人がいなければ、まったく意味がない。それどころか、逆に苦痛に感じられる。昔の人が罪人を島流しにしたのはそのためだ。

時間のなかで共にいること

何の目的もなく訓練場を行進する。軍隊式の威張った姿勢で、ただ周囲と歩調を合わせて歩く。それはなぜか、心地よい体験だった。長時間にわたる一体感のある動きがもたらす感情は、うまく言葉で言い表せない。とにかく幸福感に満たされていたことを覚えている。具体的には、自分が大きくなったような感覚と言おうか。自己が自分を超えて広がり、集団的儀式のなかに溶け込んでいく。リズムを合わせて機敏に動くというそれだけのことで気分が向上し、共に動くことに満足を覚え、世界そのものに対する漠然とした喜びを感じられた。

個人主義的な自由の弊害

問題は、僕たちが「自由な時間」と言うとき、どんな自由を求めているかということだ。
一方には、現代社会で称賛される個人主義的な自由がある。自分でスケジュールを決め、自分でやることを選択し、他人の干渉を受けない自由だ。
他方には、みんなのリズムに合わせることで得られる深い意味での自由がある。たとえ自分ですべてを決められなくても、価値のある共同作業に参加する自由だ。

個人主義的な時間に抵抗して、少しだけ共同の時間を取り戻してみてはどうだろう。たとえば、自分のスケジュールをいくらか妥協して、地域のスポーツや音楽の集まりに参加する。孤立しがちなデジタルの世界を離れて、フィジカルな世界で人との一体感を味わってみる。
もしもあなたが自分の時間をガチガチにコントロールしたい生産性オタクなら、スケジュールをいくらかゆるめて、自分がどう感じるかを実験してみるといい。自分の朝のルーティンを少しだけ崩して、家族や友人、地域の人たちと一緒に行動してみよう。すると、時間のコントロールを独占するのが最善の策ではないことに気づくかもしれない。
時間は自分のものになりすぎないくらいが、実はちょうどいいかもしれないのだ。

コロナ禍と偉大なる休止

本当の話、あなたが、人生で何をするかは、そんなに重要なことじゃない。
あなたが限られた時間をどう使おうと、宇宙はまったく、これっぽっちも気にしていないのだ。

ほどほどに意味のある人生

パンデミックが起ころうと、大統領選で誰が当選しようと、宇宙は平穏無事に進行している。僕が以前読んだ本のタイトルを借用するなら、「宇宙はあんたのことなんかクソほども気にしていない」のだ。宇宙規模で自分がいかにちっぽけを実感したとき、自分が抱えているとも知らなかった重荷が急に消え去り、なんだか身軽になったような気がしないだろうか。

あらゆることを自分の視点から判断してしまう傾向は、人間なら誰にでもある。自分の視点から見たとき、たまたま自分が存在している4000週間は、歴史のなかでもっとも重要なクライマックスのように感じられる。このような自己中心的な見方は、心理学者が「自己中心性バイアス」と呼ぶもので、進化の観点からも理にかなっている。「宇宙規模で見れば自分はどうでもいい存在だ」ということを日々実感していたら、生存や生殖のために必死に戦おうというモチベーションが消えてしまうからだ。

4000週間というすばらしい贈り物を堪能することは、偉業を成しとげることを意味しない。
むしろ、その逆だ。
並外れたことをやろうという抽象的で過剰な期待は、きっぱりと捨てよう。そんなものにとらわれず、自分に与えられた時間をそのまま味わったほうがいい。
宇宙を動かすという神のような幻想から地面に降り立ち、具体的で有限な、そして案外すばらしいこともある、人生を、ありのままに体験しよう。

終わらない準備期間

現実には、やるべきことはいつだって終わらないし、何かを捨てることは避けられないし、世界を好きなだけ速く動かすことはできない。どんな経験も(とりわけ誰かとの親密な関係が)、痛みを伴わずにうまくいく保証はどこにもない。
そして宇宙的な観点から振り返れば、すべてはまったく意味のないものに終わる可能性が高い。

そんなつらい現実を受け入れて、何の得があるのかって?

ここにいることができる。
人生の本番を生きられる。限られた時間を、本当に大事なことをして過ごせる。今この瞬間に集中できる。

もちろんそれは、長期的な計画を否定するものではない。結婚、子育て、組織の立ち上げ、政治改革、気候危機の解決。どれも非常に大事な問題だ。ただ、そういう時間のかかるプロジェクトでさえ、今この瞬間がなければ始まらない。結果はどうあれ、目の前の一歩にしっかりと取り組むしかない。

それが今できるすべてだからだ。

質問1: 生活や仕事のなかで、ちょっとした不快に耐えるのがいやで、楽なほうに逃げている部分はないか?

心理療法家ジェイムズ・ホリスは、人生の重要な決断をするとき、「この選択は自分を小さくするか、それとも大きくするか?」と問うことを勧める。そのように問えば、不安を回避したいという欲求に流されて決断するかわりに、もっと深いところにある目的に触れることができるからだ。
たとえば、今の仕事を辞めるかどうかで悩んでいるとしよう。そんなとき「どうするのが幸せだろうか」と考えると、楽な道に流される。あるいは、決められずにずるずると引きずってしまう。
一方、その仕事を続けることが人間的成長につながるか(大きくなれるか)、それとも続けるほどに魂がしなびていくか(小さくなるか)と考えれば、答えは自然と明らかになるはずだ。
できるなら、快適な衰退よりも、不快な成長をめざしたほうがいい。

質問3: ありのままの自分ではなく「あるべき自分」に縛られているのは、どんな部分だろうか?

誰に認めてもらわなくても、自分はここにいていい。
そう思えたときに、人は本当の意味で、善く生きられるのだと僕は思う。
「こうあるべき」というプレッシャーから自由になれば、今ここにいる自分と向き合うことができる。自分の強みや弱み、才能や情熱を認め、その導きのままに進んでいくことができる。危機的な世界を救いたいというあなたの情熱は、ひょっとすると政治や社会運動を通じてではなく、親戚のお年寄りの世話をしたり、作曲をしたり、お菓子を焼いたりすることを通じて実現できるかもしれない。

質問4: まだ自信がないからと、尻込みしている分野は何か?

今はまだスキルを学び、経験を積む段階だ。いつかもっと上達したら、そのときは主導権を握ろう。そう思っているうちに、大事な時間はどんどん残り少なくなっていく。
僕は思うのだけれど、大人になるということは、「誰もがすべてを手探りでやっている」という事実を徐々に理解するプロセスではないだろうか。

どうせいつまでたっても手探りで、確信のないままやるしかないのだから、尻込みしていても仕方ない。待つのはもう終わりだ。今すぐに、やりたいことをやりはじめよう。知識や技術が足りなくてもかまわない。
どうせ誰だって、あなたと同じようなものなのだから。

「それしかできない」ことをする

ユングにいわせれば、個人の人生とは「みずから切り拓いていく道であり、誰も通ったことのない道」である。
「前もって知ることはできません。あなたが一歩踏みだしたとき、そこに道ができるのです。・・・・ただ静かに、目の前のやるべきことをやりなさい。やるべきことがわからないなら、きっと余計なことを考えすぎるほどにお金がありあまっているせいでしょう。しかし次にすべきこと、もっとも必要なことを確信を持って実行すれば、それはいつでも意味のあることであり、運命に意図された行動なのです」

「それしかできない」ということは、裏を返せば「それしかしなくていい」ということだ。
この真実を受け入れることができれば、つまり、自分が限りある人間であるという状況に潔く身を任せるならば、これまでになく大きな達成感を手に入れることができるだろう。

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