「父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話」を読みました。著者のヤニス・バルファキスさんはギリシャの経済学者、政治家で、本のタイトルにあるように、経済を知らない人でもわかりやすいように経済の話を時にたとえ話を交えながら「経済とはなにか?」ということを説いてくれます。
本を読んでいて、一番目につくキーワードが「どこからともなくお金を出す」という箇所。経済の話の中で銀行が起業家などにお金を貸し出す、この「どこからともなく、魔法のようにお金をだす」というは経済を循環させるために重要な事柄でもあり、それが行き過ぎると破たんをもたらします。経済はとても不安定なもので、一度「火」がつくと政府が介入し、中央銀行が「火」を消すために現れ、火が消えるとまた、それを繰り返す。そんな経済の微妙なバランスを垣間見ることができました。
経済の歴史はすべて「余剰」から生まれ、物々交換が始まり、それが「市場」として成長していく。
そして、あらゆるものが複雑化していく中で、経済を知らない人は、経済学者、すなわち専門家に任せておくという自分の頭で考えないことへの危険性を訴えていました。
最後にハイライトにも残しましたが、ヤニス・バルファキスさんが好きな詩の紹介があって、深く、考えさせられるものがありました。
私たちは探検をやめることはない
そしてすべての探検の終わりに
出発した場所にたどりつく
そのときはじめてその場所を知る
以下、ハイライトです。
経済学の解説書とは正反対の経済の本
景気の波は私たちの生活を左右する。市場の力が民主主義を脅かすこともある。経済が私たちの魂の奥に入り込み、夢と希望を生みだしてくれることもある。専門家に経済をゆだねることは、自分にとって大切な判断をすべて他人にまかせてしまうことにほかならない。
かつて、市場はあっても経済はなかった
市場とは何だろう?市場は交換の場所だ。スーパーに行くと、みんなカート一杯にものを詰め込んでそれとおカネを交換する。スーパーの持ち主や従業員は、そのおカネを自分たちの欲しいものに交換する。
官僚、軍隊、宗教
経済について語るとはつまり、余剰によって社会に生まれる、債務と通貨と信用と国家の複雑な関係について語ることだ。
この複雑な関係をひもといていくと、余剰がなければ国家はそもそも存在しなかったことがはっきりとわかってくる。大量の余剰がなければ、複雑な階層からなら宗教組織は生まれていなかった。というのも、「神様に仕える」人たちは、何も生みださないからだ。
その時代は、余剰が全員に行きわたるほど多くはなかったので、食べ物をほんの少ししかもらえない庶民がいつ反乱を起こしてもおかしくなかった。宗教の裏付けがなければ、支配者の権威は安定しなかった。だから、何千年にもわたって、国家と宗教は一体となってきたのだ。
テクノロジーと生物兵器
オーストラリアでもアメリカでも、先住民は侵略者から殺されるよりも、ウイルスに感染して死ぬほうが多かった。侵略者がわざとウイルスを武器がわりに使うケースさえあった。毛布に天然痘のウイルスをすり込んでアメリカ先住民にプレゼントし、その地域を根絶やしにしたこともあったのだ。
囲い込み
もし、君が突然家を追い出され、イギリスの田舎の泥道に放り出されたらどうする?隣村まで歩いて行って、最初に見つけた家の玄関を叩き、「何でもやりますから、食べ物と寝る場所をお借りできませんか?」と頼み込むだろう。
これが労働市場のはじまりだ。土地も道具も持たない人間は、労働力を売って生きていくしかない。苦役を商品にするというわけだ。要するに、羊毛が国際的な価値を持ったことで、イギリスの田園も国際的な価値を持つようになったわけだ。農民と太った羊を入れ替えるだけで、それが可能になった。
工場
産業革命の最初の具体的な形が、工場だった。詩人のウィリアム・ブレイクが「暗い悪魔のような工場」と呼んだその場所で、行き場を失った農奴たちは、人類史上はじめて工場労働者として蒸気機関と隣り合わせで汗を流して働くようになった。
誰が助けてくれるのか?
中央銀行とは国家が所有する銀行で、そのお客さんは銀行だ。この中央銀行からおカネはやってくる。途方もなく莫大な量のおカネが。
銀行と国の「持ちつ持たれつ」の関係
銀行が市場社会に与える不安定さは減らすことはできても、完全に消し去ることはできないのだ。というのも、銀行が与えてくれるものが、経済を動かす燃料になるからだ。それが、借金である。
国家が安定をもたらすことに成功すればするほど、借金を生み出しやすい安全な環境が生まれ、銀行はますます活発にカネを貸し出すようになる。そしてまたそれが不安定さを引き起こす。
必要な寄生虫
労働者には雇ってくれる起業家が必要で、起業家はものを買ってくれる労働者が必要だ。起業家はおカネを貸してくれる銀行が必要で、銀行は利子を払ってくれる起業家が必要だ。銀行は守ってくれる政府が必要で、銀行は利子を払ってくれる起業家が必要だ。発明家はほかの発明家と発明を競い合い、科学者のアイデアを盗み取る。経済はすべての人に頼っている。
先行きへの楽観と悲観
失業否定派は間違っている。労働市場は労働力の交換価値だけで動くものではない。経済全体の先行きに対する楽観と悲観に左右されるのだ。だから一律に賃金を下げても雇用は増えないし、逆に失業が増える可能性もある。
巨大企業にとっての「素晴らしい新世界」
いまの世界は理想とは程遠く、「スタートレック」の世界とは正反対に、テクノロジーを手に入れた者が自分の利益と権力のためにそれを使っている。
経営者たちの究極の目標は、誰も働かずに済むような社会を実現することではないし、利益がどうでもよくなるような社会を実現することでもない。機械が設計した機械によって、すべての人が平等に社会の豊かさを享受できるようにすることでもない。
経営者の夢は、どの企業よりも先に労働者を完全にロボットに置き換えて、利益と力を独占し、ライバル企業の労働者に自分たちの製品を売りつけることだ。
イカロスはときどき堕ちる
経済が定期的に厄災に見舞われると、そのたびに人間の労働力は復活する。倒産や経済危機によって、少なくとも当分のあいだ人間の労働力は安くなり、生き残った企業は高価な最新型のロボットのかわりに失業者を雇い入れるようになる。経済危機は回復の前触れであり、回復は経済危機の前触れなのだ。
ケインズのスタートレック的予言
われわれ人間は、テクノロジーの可能性を余すところなく利用する一方で、人生や人間らしさを破壊せず、ひと握りの人たちの奴隷になることもない社会を実現すべきだ。
自由とショッピングモール
市場社会は見事な機械や莫大な富をつくりだすと同時に、信じられないほどの貧困と山ほどの借金を生み出す。それだけではない。市場社会は人間の欲望を永遠に生み出し続ける。
その最たる例がショッピングモールだ。その構造、内装、音楽など、すべてが人の心を麻痺させて、最適なスピードで店を回らせ、自発性と創造性を腐らせ、われわれの中に欲望を芽生えさせ、必要のないものや買うつもりのなかったものを買わせてしまう。そう考えると、どうしても嫌悪を感じざるを得ない。
イデオロギー
19世紀以来、経済学者は本を書き、新聞に論説を投稿し、いまではテレビやラジオやネットに出演し、市場社会のしもべのようにその福音を説いている。一般の人が経済学者の話を聞くと、こう思うに違いない。
「経済学は複雑で退屈すぎる。専門家にまかせておいたほうがいい」
だがじつのところ、本物の専門家など存在しないし、経済のような大切なことを経済学者にまかせておいてはいけないのだ。経済についての決定は、世の中の些細なことから重大なことまで、すべてに影響する。経済を学者にまかせるのは、中世の人が自分の命運を神学者や教会や異端審問官にまかせていたのと同じだ。つまり、最悪のやり方なのだ。
「外の世界」からの視点を持ち続ける
私たちは探検をやめることはない
そしてすべての探検の終わりに
出発した場所にたどりつく
そのときはじめてその場所を知る