「狂いのすすめ」読みました。本書は「狂い」というキーワードが使われていますが、それは世間からすると「狂い」という形になるのかも?ですが、ほんとうは「自然に気楽にありのままでいい = 狂い」という生きるのが軽くなる本でした。
今、同時に平行して読んでいる「お金が人を選んでいる」という本があるのですが、主張的に対極にあるような自己啓発本で自分なりに咀嚼して飲み込むのに一苦労している所です汗。
ひろさちやさんは、「目的・目標を持つのは最悪の生き方」だと言います。けれども、自己啓発では「目標を明確に持たなければ、何もなせない」とあります。
そもそも、双方の本質は比較対象ではなくて、もし、目標を持つのであれば、それはあくまでも自分が心からやりたい、自然な行為かもしれない。もし、無理せず自然に目的に向かっていくならばそれは「ありのまま」であり、狂いのすすめ的観点では 目的・目標を持っていない生き方ではないか、とも思います。
自分というものを壊してまで、何かを無理して目標を持とう、やり遂げようとしなくてもいいし、自分が生まれてきた意義なんてものも探さなくていい。しかし、自分がどうしてもやりたいのであれば、それは仏(神)のシナリオ的に「やってくださいよ」ということなのかもしれない。
要は自分が苦しい苦しいとそんな肩肘張って人生歩まなくても、ありのままで生きていく、それが何もしない人生でもいいし、一生懸命に何かをやり遂げる人生でもいい。全てを肯定するような意味合いに自分は捉えています。
自分のバイブル本「淡々と生きる」にも通じるし、最近読んだ、全肯定する生き方「運気を磨く」にも通じるような、そのような本でした。
80: 「現在」を楽しむ
人生の旅もナメクジになったほうがいいと思います。カタツムリのように、大きな殻を背負ってはいけません。
大きな殻というのは、目的地です。人生の旅には、目的地があってはならないのです。目的地に到達できるかできないか、わからないからです。
目的地というのは、「人生の意味」や「生き甲斐」です。人生に何かの目的を設定し、との目的を達成するために人生を生きようとするのは、最悪の生き方です。
99: 希望を持つな!
希望や理想も持ってはいけません。
希望・理想を持つということは、現在の自分を不満に思っていることと同義です。
いまの年収では不満。現在の地位では不足。そう思っているから、希望を持つ。それは`希望`という名の欲張りです。
112: そのまんま・そのまんま
われわれには、「自分が自分であっていい」という権利があるのだ、という哲学です。
わたしは、これこそが「基本的人権」だと思っています。
そして、この「基本的人権」を、もっと平たく表現するなら、そのまんま・そのまんま。になります。
112: そのまんま・そのまんま
がんになっても、世間の常識が「がんは不幸だ」というものだから、その重圧に負けて絶望するのです。前にも言いましたように、がんは「そのまんま・そのまんま」にしておけば、老衰死できる病気なんです。人間の死に方としては、いちばんいい死に方かもしれません。ひょっとしたら幸福なことなのに、ついつい世間の重圧に負けてしまって、おたおたしてしまうのです。
126: 孤独を癒してくれるもの
わたしたちも自我というトゲを持っています。だから、相手とべったりとくっつくわけにはいきません。親子であろうと、夫婦であろうと、くっつけばトゲが痛いのです。
かといって離れると淋しい。まさしくジレンマになるのです。
167: ゴム紐の物差し
仏の物差し(神の物差し)とは、どういうものでしょうか?
じつは、それは、目盛りのない物差しです。
目盛りがないから、測ることはできません。つまり、それは、「測らない物差し」です。
男と女と、いずれの価値が大きいか?われわれはゴム紐の物差しで測って、それを平等にしようとします。略
仏の物差しだと、目盛りがないから測れません。本当は測れないのではなしに、測らないのです。そして、どちらも --すばらしい存在だ―― と見ます。
男は男のままですばらしい、女は女のままですばらしいのです。
つまり、無限大の価値をそこに認めるのです。
187: 仏のシナリオを生きる
わたしたちがこの世に生きているのは、仏が書かれたシナリオの中で、それぞれがいろんな配役をもらって、その役を演じているのです。その`演じる`という言葉は、英語で言えば`プレイ(play)`で、それは`遊び`なんです。だから、われわれは仏のシナリオの中でプレイしているのです。それが人生です。
195: 大根役者になるな!
力まずに、ゆったりと、のんびりと、「遊び」の哲学でもって仏からいただいた配役をプレイする。それがわれわれの生き方です。
どうか大根役者にならないでください。現代日本人はまじめに働いて大根役者になっています。目的や目標に向かって邁進するのがいい演技だと思っています。
でも、そのような演技は大根です。仏のシナリオは、わたしたちが人生を「遊ぶ」ように書かれているのです。わたしはそう思います。
191: あとがき
わたしたちは、ついつい他人の評判を気にします。他人に貶されるのがいやで、また他人に褒められたいのです。それは世間を気にしていることであり、世間の奴隷になって生きることです。禅僧が教えてくれているのは奴隷をやめて――自由人になれ――ということです。略
どうすれば自由になれるか。世間はしたたかです。なかなか手強い。そう簡単にはわれわれを解放してくれません。
そこでわたしは「狂う」という武器を考えました。わたしたちはみずから「狂う」ことによって世間の軛から自由になれるのです。だから、読者も、大いに狂ってください。そうすれば、もっとのびのび、のんびりと、安らかに生きられますよ。あなたの人生はあなたの`もの`ではありませんか。それを世間を気兼ねしながら生きるなんて、もったいない。もったいない。そう思いますよね。